はつかねずみと小鳥と腸詰め
五十三軍曹
もくじ
グリム童話より 「はつかねずみと小鳥と腸詰め」
SCENE1 グラフの部屋
SCENE2 ウィリアムの部屋
SCENE3 浴室
SCENE4 寝室
SCENE5 研究室
SCENE6 退室
グリム童話より 「はつかねずみと小鳥と腸詰め
昔あるところに、はつかねずみと小鳥と腸詰めが、仲良く暮らしておりました。小鳥の仕事は森へ行って薪 を集めること、ねずみの仕事は水汲みとお膳の支度、腸詰めはお料理番でした。三人はそれはうまくやっていました。
或る日小鳥が森へ行く途中、他の鳥に会いました。小鳥が自分の暮らしが幸せなことを自慢すると、妬んだ鳥は
「お前は自分一人が大変な仕事を押し付けられているのが判っていないんだ。考えてもみろ、ねずみは水を汲んで掃除をしたら、後はお膳の支度を言いつけられるまで自由だ。腸詰めは火の傍でシチューの様子を見て、良い頃合になったら鍋に入って四べんも這いずり回れば、丁度良く塩味がついてそれで終わりじゃないか」
と小鳥を罵ったのです。
これを聞いた小鳥は、家に帰るとねずみと腸詰めに、自分は損をしていた、もう薪取りには行きたくないと言い出しました。ねずみと腸詰めは一生懸命頼みましたが、入れ知恵をされた小鳥は聞きません。仕方なしに三人はくじを引き、小鳥は水汲み、腸詰めは薪取り、ねずみは料理番ということになりました。
ところが次の日、薪取りに当たった腸詰めが、森へ行ったきり帰ってこないのでした。心配して小鳥が迎えに行くと、大変なことになっていました。一匹の犬が、森を歩く腸詰めのことを誰のものでもない獲物だと思い、噛み殺してしまったのです。
小鳥は犬を問い詰めましたが、犬は
「腸詰めは偽の手紙を持っていたから命を落とす羽目になったのだ」
と、うそぶくばかりで話になりませんでした。
小鳥は家に帰ってすべてを話しました。ねずみと小鳥は仲直りをして、これからは二人で頑張ろうということになりました。
それからは小鳥がお膳の支度をしました。ねずみはシチューを作り、腸詰めがやっていたようにシチューに入って味付けをしようとしました。ところがお鍋の真ん中まで行かないうちに動けなくなり、肉も毛皮も溶けてしまいました。小鳥が来てシチューをお膳に並べようとしましたが、ねずみがいません。小鳥は家中を探しました。そうこうしているうちに、火の番のいない台所は火事になり、小鳥が急いで水を汲みに行くと、手桶が滑ってしまいました。慌てて拾おうとした小鳥は井戸に落ち、溺れ死んでしまいました。
SCENE1 グラフの部屋
壁に掛けてある四行詩の書は縦書きで、ほとんどの字は読めないけれど、二行目の頭と三行目の頭を横に読むと「童貞」になるのがいつも気になった。詩の下では、ミュージックディスクオーディオが蛍光緑のスピンドルを回している。
スピンドルの縁に、足元の小さな常照非常灯の褪めた光がうつり、ぬらぬらと照っている。オーディオの筐体は黒い合木材が貼られ、絨毯とオーディオの間に透明の耐震材が挟んである。耐震材は時間を経て融けて絨毯に染みている。オーディオの正面に丸テーブルがあり、オーディオとテーブルと三角を作るようにソファが置いてある。
薄薔薇色の二重天井を透ける照明は、部屋全体を赤みかがらせている。照明は丸テーブルの上に置いたスモモ酒の瓶にも、水晶の切り出しグラスに注いだ朱色の酒にも丸い光の輪を作る。昼間は汚れたクリーム色に見える革張りのゾファが、壁と同じ浅いオレンジに統一されている。
ゾファには長い髪の男が沈んでいる。唇に黒い細紙巻を載せ、左手で陶器の灰皿を弄んでいる。
「それで、どうなったって?」
グラフはそう言って少し溜まった灰を灰皿に落とした。細紙巻から昇る煙は、ラズベリーの匂いがする。部屋に注がれる木苺色の光の中で、甘い匂いがゆっくりとうねる。オーディオからは低音のストリングスが流れつづけ、その音がそのまま空気の流れになったようにラズベリーの部屋を回っている。
暖色の中で、蛍光緑のスピンドルと、スピンドルに照る光と、グラフの青い髪だけが、違った色調を持って浮いて見える。
「フラフラで立てなかったから、先生と二人で車まで運んで、クワンさんの倉庫借りて、ゴム手袋使って全部吐かせたの。そしたらすごいのよ、ビニールの切れ端、ゴミとか棄てる袋のビラビラしたやつ。あのなかにロモ樹脂20も包んで飲んでたの。警察来たらね、たぶんそのまま連れて行くってね、警察来る前に病院運んだの。李先生がそのままにしたら死んじゃうからって、いろんなの見てきたけれど、六十九歳のおじいちゃんでしょう。あんな孫もいる歳になっても中毒ってやめられないのね。命は助かったんだけど、警察行ったし、大変だったなぁ」
私はグラスに残った酒を干して、瓶の中のスモモ酒も全てグラスに移した。大変だったんだな、とグラフが少ない灰をこまめに灰皿に落としながら言う。グラフは暫く膝に置いた灰皿を見ていた。それから、動きが悪くなった耕作機のように逡巡してから、ウイリーは?と切り出した。
「知らない。先月から会ってないから」
私の顔を見てグラフは首を巡らせた。長い髪がソファと背中の隙間から引き出され、左耳の上からあごの下まで一掴み房がかぶさった。咥えた紙巻の火をさけ、彼は右手で青い髪の房を後ろに払った。
「あいつな、仕事なくなると具合が悪いんだ。いつだったか、ウイリーのIDが剥奪されたことあっただろ」
覚えている。雨季の盛りで、夜は冷たい雨がずっと降り続く日だった。藩人街の集塵所脇で、ウイリーは死人のような白い顔で歩いていた。私が駆け寄ると、顔は涙と雨でぐちゃぐちゃだった。頬に静脈が浮かんで、目蓋は痣のように青かった。ウイリーは私を見て、今日はじめて名前を呼ばれた、と言った。
「ヘーデル、めんどくさいかもしれないけれど、ウイリーの様子を見てやってくれないか。十二月の部署は今ないから、誰もあいつをかまってやれないだろ。俺は六月の手が離せないし、ウイリー隔壁の外に、街はいやだって外国人街に住んでるだろ?あいつ変な所にこだわるから、部下に居場所教えないんだ。俺にもクロコダイルに喋るからって、新しい住所言わないし。制服達はウイリーのかっこいいところしか見てないんだよ。笑えるだろ?ウイリー仕事中は見え張って嵩上げの靴履いて、全然違うんだ」
ウイリーの外面がいいのはよく知っている。顔色の悪いのを隠すためのコンシーラーは、私よりも高いのを使っている。
IDを剥奪された日、私の部屋で倒れたウイリーは、熱でうなされながらずっと、塀の中では誰も名前を呼んでくれない、と繰り返していた。向こうでは、みんな役職で呼ぶだろ、俺いつも十二月王って、十二月って言うから、みんな言うから、俺誰にも名前呼ばれなかった。ヘーデル、名前なかったよ俺。
「役柄がないと、あいつ何やったらいいかわからなくなって無茶するんだよ。部下とか責任があるといい顔して、生き生きして、やる事があると悪くならないんだけど、今はやる事がないから、心配なんだよ。電警に確認しても、ここ四日間PASS使ってないって。クロコダイルが、王は薬の量が増えましたってずっと心配してるんだよ、俺も勿論心配だけど、まああいつのことだから危険な量は回避してると思うけどさ」
グラフは神経質に灰を落とし、煩わしかったのかそのまま揉み消した。彼が新しい紙巻を出そうとしたとき、ミュージックディスクが終わった。低く小さいながらもはっきりと聞こえるモートル音がどんどん遅くなり、スピンドルが止まる。
「わかったわ。ウイリーのとこ、行ってみる」
「頼む。何かあったらすぐ連絡くれ。助かるよ、心配だから、俺が自由に隔壁の外出られれば良かったんだけど」
グラフの新しい細紙巻は、くるくる渦巻く青い煙を引いていた。白い芋虫が身を捩って口から吐いた糸を辿り昇っていくような動き。私はスモモ酒の残りを飲み干した。
「ありがとう。気にしないで」
SCENE2 ウィリアムの部屋
ドアを開けてすぐ、青いきれの臭気が鼻を突いた。空気は重く、体の芯を痺れさせる濃い闇が立ち込めている。指でスイッチを探り当て闇を吹き払うと、眼前の赤熱灯が橙色の強い光を目の奥に差し込んだ。視線を振っても一瞬遅く、緑色の線虫のように残像が目の前に漂う。
玄関の先は三部屋目抜きのまっすぐな廊下になっている。闇に隠れていたものは、潰れるに任せて転がる、良く熟れて種の大きなトマトだった。中にはわざわざ種をとって賽の目に刻んだものまで一隅に山をなしている。トマトの汁は、家の中心を走る廊下の溝を這い、すぐ足元まで届いている。汁から、粘るような臭気が昇っている。私の柔らかな革靴には饐えた青臭さがしみついて、この臭いはもう落ちないだろう。
廊下の果てには、訳ありに一つ段ボールを置いたリビングが見える。段ボールの下の方で、はじめから潰れ腐っていたトマトの白いカビをはやしているのが、唯一人間の手の入った跡である、閑散とした部屋。しかし空気は腐敗の気配、生き物の気配を重く含んで、肺を内から圧迫する。
この家の主が飢えを感じ、自分で自分を養おうとして失敗したことだけわかった。入り口から左手、リビングとひと続きになったキッチンは明かりもなく、そこから流れ出てきた液体がリビングまではみ出ている。スープのような透明の汁の中、リビングとの境界に香草の束が転がり、暗がりからは水音がする。
料理の、正確には料理の残滓が、かびたトマト臭と交じり合い青臭さを作り出している。キッチンに近づくと、色々なものが目に入ってきた。ベースにするための野菜屑。湯剥きした大量のトマト。魚肉ソーセージを包むビニールのような丸まったトマトの皮。ケチャップとその缶。爪がついた鳥の脚。外国語の書かれた魚粉キューブの包装紙。鼠の死骸。小柄な男。
この巣の主は、明かりもないキッチンの床で丸くなっていた。青白い肌、痩せた躰、くせのある赤毛。四肢を屈して野菜のスープに浸って眠る姿は、子宮の中の、あるいは液体で満たされた水槽の中の、不自然に頭が大きくて背骨が透き出た胎児を連想させる。あるいは、生まれたばかりで羽毛の生えていない、目も見えない未熟な雛。首の後ろを摘んで持ち上げてはいけない、それだけで死んでしまう。
慌てて抱き上げた、触れるのが怖いぐらい細くて青白い躰は、冷たかった。その冷たさに驚いて手を離すと、崩れて床に落ちた。水たまりに髪の毛が花のように広がり、綺麗に紅かった。
「やだよう……」
いつもこれだ。いつもこれだ。いつもこれだ。いつもこれだ。いつもこれだ。いつもこれだ。いつもこれだ。いつもいつも。鈍い痺れが体の奥から上がってくる。肺のあたりまで上がってきたところで、眩暈によろめきながら流しにかじりついた。こみ上げてきたものが喉を灼いて、息もできないような圧迫感が背中から外に抜けるまでそうしていた。胃酸の匂いが目にしみた。
嘔吐物にまみれて、四錠分の空薬包が流しに転がっていた。つまみ上げて水で洗うと、プリントされた文字が読めた。 ハイサンベンタシン、40r。
先ほどとは違う柔らかな痺れが襲ってくる。痛みを感じないはずの脊髄が痺れるような感覚。呼吸が浅くなるのは、肺を占拠しつづける青臭い瘴気の所為だけではない。
「馬鹿野郎」
馬鹿だ、私も、この人も、三十路も近いのに何やってるんだろう。
「馬鹿なことしやがって」
悔しかった。いつもこうなるのが悲しかった。
「畜生いいかげんにしえ!馬鹿なごどすんな!!」
私は国言葉で怒鳴った。怒鳴って、目の前に倒れている彼を蹴った。馬鹿野郎と罵りながら何度も蹴った。薄い躰はその度にずるりと動いた。
「死ね、もう死んでしゃえ、一人で死んでしゃえ!」
水を吸ったシャツとスラックスは、ただでさえ痩せぎすの躰を救いようなくみせる。私の靴はトマトの滓が染み込んで波状の紋が浮き上がっている。踏みつけると黒いシャツからじわりと液体が染み出てきた。その足が細かく震えていた。足元に広がる液体に波紋が広がっていった。
彼が震えていた。
「起きろ!」
もう一度蹴るとつま先がわき腹をとらえた。彼が何かうめいて身を捩った。躰を二つに折る。乱暴につかんだだけで折れそうな四肢は力を失っている。いつだって、壊れそうで、繊細で、それを守るために私はたくさん傷ついて、帰ってくるとこうだった。
いっそこの手で壊してやりたい。
「起きろ!」
私は止められなかった。鬱積した感情は既に私の「物」ではなかった。私が感情の「物」にされていた。死人のように抵抗しない人間に、「物」は容赦なかった。
「やめろ!」
彼が叫んだ。
やめろ、と彼は叫んだ。意思のない躰が引きずられるように動いた。尖った顎がこちらを向いた。死人のような白い顔で、そこだけ生き物である赤い瞳が、目蓋の隙間から私のことをじっと見ていた。殻の隙間から外をうかがう雛鳥のように。どうして蹴るの?どうして自分に当たるの?そう訴えていた。それは私の肺を強く萎縮させた。激情は失せ反対に激しい恐怖と自責がやってきた。何かが怖かった。私は逃げようとしたけれど後ろに一歩下がったとたんにガス台にぶつかって動けなくなった。どうしてか、どうしてかわからないけれどずるいと思った。なんでいつもこうなんだろうと。
「だから嫌なの……もう」
気付かなかったが、私は泣いていた。嘔吐しながら、彼を何度も罵り蹴りながら泣いていた。ずっと泣いていた。
「ヘーデル?」
ウイリーが、目を開けて、はっきり私を見ていた。たった今私がいる事に気付いたみたいに。自分を蹴っていたのが私だと、今の彼はわかっているだろうか。
彼はさっきより一層激しく震えていた。
「寒い」
と言った。冷め切ったスープの中に浸かって、どれぐらい彼は寝ていたのだろうか。それは彼もわかっていて、濡れた躰と床に顔をしかめ起き上がろうとした。しかし何故か腕を縮めてうずくまってしまう。ほら、と私は意識せずに彼を抱き起こしていた。習慣になっているのだろうか、この繰り返しが。ヘーデル、ウイリーが蚊の鳴くような声で私を呼んだ。ヘーデル、俺何してたの?寝てたのよ、漬け汁の中でね。すぐ体温めないといけないわね。ウイリーはまだ半分上の空だった。薬が抜けきっていないのかもしれない。ハイサンベンタシンは強力な催眠導入処置剤だ。運動系に作用し、筋肉を弛緩させる。
突然彼がしがみついた。けれど抹消が弛緩しているから、まったく力が入らない。それでも何度も縋りついて来た。彼の、血よりも紅い見事な赤毛は水分を含んで顔と首筋にぴたりと張りついていた。ウェイブを描く前髪の先で水滴が震えていた。両の腕から彼の震えが伝わってきた。
兎だ。
私は小さいころ家で飼っていた兎を思い出した。兎は庭の小屋で飼われていた。ある朝生まれたばかりの子兎が、冬の寒さに耐え切れずに死んでいた。四羽の子兎のうち生き残ったのは一羽だけだった。その子兎も弱っていて、父は兎を暖炉の火で暖めるよう私に言った。小屋の中で震えていた兎を手の中にそっと包んだとき、子兎はぎゅっと丸くなって震えていた。
「ウイリー、立てる?」
聞くと、少し難しい表情をした。眉根を寄せて、膝を見ていた。引きずっていかなければならなそうだ。でもこのままだと運べない。腕の前で固く合わされた腕を解こうとしても頑なに拒んだ。
親身になって彼を「介護」しながら考えた。私は彼を助けたいのだろうか。私が彼に助けを求めているのだろうか。
ウイリーの髪の毛は、セルリと肉豆蒄仁の香りがした。
いざ引きずる段階になると彼はおとなしかった。同年代の成人男性と比較して、彼は非常に小柄だ。小さくて、痩せている。本来成長するべき時にちゃんと成長しなかった、不完全なパーツだ。それでも私の腕力で軽々と運ぶわけには行かなかった。神経の切れた人形のような足は、木目柄のフローリングの上に、レールのような二本のソースの筋を引いた。
SCENE3 浴室
服のまま湯をはったバスタブに浸けてやった。急な温度差にもぼうっとしていて、呼びかけても返事はない。ふせがちな目はいつも潤んでいる。口は半開きのままである。沈まないように肩を支えると、やっと返事をしてくれた。ごめん、ヘーデル、ごめん。ウイリー、いいの、でも一体何錠飲んだの、ねえ教えて、正しい対処をしないといけないのよ。
彼は、私の言葉に不満を感じたようだった。何錠、と聞いた一瞬、甘えるようなひどく弱々しい何かが、わずかに瞳の色に走った。でも私はその「何か」が決して弱いものではないことを知っている。それはビールスのように非力なものだが、ビールスのように人を死にも至らしめるものだ。
不意に、私は何故彼に対してずるいと感じたのかがわかった気がした。それは恐らく、彼が「強い」ことへの私の反感なのだ。
ウイリーは強いのだ。私など太刀打ちできないくらい。どんなにドラッグに溺れて躰がぼろぼろになっても、それは耐性菌のように逆境により強くなっていく。私は、その強い「何か」がひどく非力なものを装って私に助けを求め、まるで私が必要であるかのように振舞うこと、それが許せないのだ。彼は、強い。
本当の彼に私は必要、ない。
ウイリーは徐々に熱を取り戻し始めた。瘧のような激しい震えは引き、血管の拡張した躰は赤く染まる。もう大丈夫だからと、彼は私に、肩にかけたその手を離して欲しいといった。
大丈夫といいながらウイリーの躯はバスタブに沈みそうだった。うなだれた顎から耳にかけてのラインに柔らかな髪は張り付き、朱に染まったうなじに融けている。綺麗だと思う。
ウイリーは存在が透明になってゆくほど綺麗になっていく。昔私が若くてまだ彼も健康だった頃は、この人がこんなに綺麗だなんて考えなかった。あの頃は綺麗というより可愛かった。可愛らしいものが綺麗になっていくには根本の変化が必要だ。それは幼虫が蝶になることである。しかしその変化には蛹を必要とする。
多くの幼虫が蛹になれず、多くの蛹が蝶になれず、死んでいく。こうも言える。人間は幼虫の生き方をする。食べて成長して、ある程度脱皮を繰り返し大きくなることをやめる。終齢幼虫は幼虫の社会で既に大人だ。ある者は、幼虫のまま死ぬ。ある者は蛹の段階にたどり着く。
蛹とは、一種の死である。自ら動かず、自ら成さず、空を夢見て眠る。そして本当にごく一握りが、美しい死を迎える。死の美しい側面こそ、蝶である。
大多数は空を知ることもなく、壊死して黒く融けてゆく。
何を何錠飲んだのか、あるいは飲んでいないのか、彼は教えてくれなかった。ただ頭をたれて唇を噛み締めるだけだった。
すまない、いつもそうだけど本当に。ウイリーは謝りつづける。いったってもう遅いかな、こんなの全然、努力した内に入んないよな、でもいつだってちゃんとしようとしてる、反省してる、そのつもりなんだけど、ダメかなこんなの言訳だよな。ごめんヘーデル。でも本当なんだ、俺だって変わろうと思ってるし、きっと変われると思うよ、きっとできると思うんだ、こんなんばっかだけどさぁ、ごめんいつも口だけで、でもなんでなのかな、俺、やる気ないのかな、だって出来るはずなのに出来てないってやっぱ、俺の所為だよごめんヘーデル悪かったよ。
謝る、というのはどういうことなのだろうか。私の記憶が確かなら、彼は今もあまり変わらない。ごめん、悪かったよ、反省してる。迷惑ばっかりかけて、何もしてやれなくて、ごめん。この繰り返し。
ごめん、悪かったよ、反省してる。迷惑ばっかりかけて、何もしてやれなくて、ごめん、悪かったよ、反省してる。迷惑ばっかりかけて、何もしてやれなくて、ごめん、悪かったよ、反省してる。迷惑ばっかりかけて、何もしてやれなくて、ごめん、悪かったよ、反省してる。迷惑ばっかりかけて、何もしてやれなくて、ごめん。
ウイリーは誰に対して謝りつづけているのだろう。私の知っている限り、十年これを繰り返している。きっと私と知り合う前からこの人はこうだったのだ。そして私と知り合ってからもそれが変わらないのだ。では彼は何に対して謝罪しているのだろう。
具象?抽象?信仰?イデオロギー?ゲゼルシャフト?私はその中に所属してる?その中心にいる?
ウイリーはうつむいたまま謝りつづけた。十年前のこの人を思い出した。あの時も、ずっと下を向いたまま、ついに顔を上げなかった。うつむいたまま音声案内を流す黄色い人形のようだった。
ウイリーは腕を伸ばして自分の体を支えようとしていた。水に浸かりすぎた指は真っ白くふやけて何層にも剥がれ、バスタブの縁を何度も掴み損ねる。もう出るかと聞くと頷いた。彼は私の手を煩わせたがらなかった。手伝おうとする手を払って、自力で立ち上がろうとした。奪われた体温が再び入ってきた所為で、急な血圧の変化に動悸が起こっているのがわかる。荒い息をつく。静脈が人工物のように浮き出ている細い腕になんとか力を入れようとする。その度に腕は独立した意志をもつように不自然に震える。彼はそれを別の生き物を見るような目で見ている。
ウイリーは何度も失敗する。服を着ている所為で水が彼を捉えて放さない。その度に悔しそうな表情をする。私は見ていることしか出来ない。手を貸せばまた傷つく。その姿はバスタブという殻を破って出てくることもままならない雛を思わせる。
突然、彼の両腕が跳ね上がった。止め具が外れたばねのようなモノじみた動きだった。一瞬だけ腕を頭の上に挙げた形で固まったあと、ざぶんと湯に沈んだ。
一瞬で私の内臓が収縮した。私は何か叫んだかもしれない。でもその瞬間は、何も、一切の音が、聞こえなかった。
無理やり引き上げると動いて抵抗した。尻尾を掴まれた海老蟹のような動きだった。硬直を起こした腕は、棒のように堅く角張っていた。目はしっかり開けていた。
でも何も見ていなかった。
バスタイルの上に引きずり倒すと左腕が異様な痙攣を起こした。頭をタイルに叩きつける動きをした。ごっごっといたそうな音がして、私は何とか止めようとしてただ夢中でウイリーを抱き上げた。今まで思うように動かなかった彼の足が跳ね、反動で彼の胴体はきりきりと反り返った。口角には草の匂いがする黄色い泡が滴っていた。私は肩を抱いて、彼を押さえてなんとかしようとした。激しい引付を起こした。
彼は歯を食いしばっていたが、そのまま吐いた。出口を失って、嘔吐したものが鼻から出てきても口を開くことができず、私は彼の口を割って下顎に人差し指と中指を当て、押した。黒い粒が混じった水っぽい内容物を口腔から掻きだしても痙攣は治まらなかった。舌を押さえている私の指を、反射で吐こうとする。その時鼻に入った内容物が逆流して咳き込んだ。
それから、最後の塊を吐き出して、大人しくなった。
私の肩から胸にかけて、血の混じった吐瀉物でべっとりと服が張り付いた。私の躰からウイリーの躰を伝って、赤い筋を引く黒い粒がタイルの目地を流れる。
吐いた後の彼は穏やかだった。私にすべてを預け膝を折った格好で、まだ心悸亢進はあったが、痙攣は失せていた。
「もう怪くねぇえ?」
私は生国の言葉でだいじょうぶだいじょうぶと声を掛けていた。ウイリーは私の方に額を押し付けじっとしていた。躰からはまだ微かにトマトの青い匂いがした。ぺっとりとシャツのはりついた背中に手をやると温かさと鼓動が伝わってくる。呼吸は正常である。
なぜだろうか、私はとても穏やかで優しい気持ちになっていた。今まで押さえつけ閉じ込められていたものが、開放されたような気がした。
ウイリーが倒れたり吐いたりすることは珍しいことではなかった。だからといって、今更倒れたという話を聞いても、もう慣れた、などということはない。病院から連絡が来るたびに、本人が思う以上に私は心配している。
ウイリーはドラッグアディクトだ。完璧主義の気がある性格はストレスを溜めやすく、昔から向精神薬や睡眠導入剤に頼ってしまっていたと言っているが、半分は嘘だと思う。テトラヒドロカンナビノールを処方する病院など聞いたことがない。アルコールを呑まない代わりに手の甲に静脈注射の跡を作っているような人だ。言葉で止めさせられるものではないのかもしれないが、自助グループを紹介しても私が言っても、一向にやめようとしない。そのくせ事あるたびに口先では謝罪を繰り返す。
そして、何故か私が責められる。周囲の協力がないと、本当にやめる事って出来ないんですよ、自助グループにも限界があって、一番はご家族やご友人や職場の協力なんです。あなたは本当にウィリアムさんを助ける気がありますか。我々に丸投げされてもね、駄目なんですよ。あなたこそ口先だけじゃないんですか。
冗談じゃない。
ウイリーは一度家族に棄てられている。それがどういうことなのか、故郷や家族から遠く離れた私でも、わからない。ウイリーの家族は、動けないウイリーを抱いて運んだり、吐いたものを浴びても気道を確保しなければならないのが嫌で彼を棄てたのだろうか。昨日、病院に介護の疲れが限界に達して母親を殺した私と同い年の男性が来た。
私だってウイリーの相手は疲れる。やめたいと思うこともあるし、今日だってグラフに頼まれなかったら多分来なかった。でもこうして目の前に小さなウイリーがいたら、私は彼を助けたい。
なぜ、こんなにも穏やかな気持ちになれるのわからなかった。私は人の役に立ちたくて薬理医学の道を選んだのだから、目の前に病人がいたら助けたいのは当然かもしれない。ただ言えるのは、私は十年間これと似たようなことを繰り返して、今のような穏やかな気持ちを感じてきたということである。
服に染み込んだ湯が水に戻り始めていた。ウイリーが私から身を離して、壁を伝って自力で立った。
SCENE4 寝室
この部屋が賑やかになったのはいつからだろう。寝室と仕事部屋を打ち抜きにしたこの部屋には、私には到底使えない高価な電子機器が沢山置いてある。垣根を越えて伸びる蔦のように、この部屋の寝室部分はどんどん仕事部屋部分に侵食されているようだ。この国に来るまではウイリーだって使えなかったコンピュータが、待機電源の緑やオレンジのLEDを煌めかせている。使われているのか怪しい寝台の上には、「白客的故郷<ハッカーズヘイベン>」と書いてある情報誌と、海賊版の「黒客的故郷<クラッカーズヘイベン>」が何冊か置いてある。
もう入っていいよ。足元に気をつけて、配線を踏んでしまうといけないから。「白客的 故郷」の隣には、着替えて毛布を肩に掛けたウイリーがいる。一応整理したんだけど、規格が合ってないジャック使ってるから、踏むなよ。
彼の顔色はやはり良くなかったが、何とかなりそうに見えた。こちらを見て、着替え、それしかなかったかなと言った。ほかのは持って帰っちゃったのよ、夏物ばかりだもの。
彼の横に座ろうとすると、案外しっかりした震えのない手つきで本を退けてくれた。さっきはボタンが自分で外せなかった。私がパイコォってなに、と聞くと、絶滅した人種のことだと答えた。ヘーデルも餓鬼の頃聞いたことあるだろ、子供向けの戯曲で「魔法使いナタン」とか。あの頃だよ、俺たちの祖先。だけど、本物の白客(パイコォ)はもういないんだ。今いるのは黒客だけ。
その絶滅した人種の血を引く人間は、ぽそぽそとした声で、覚えていることを一つ一つ話しはじめた。
最初はジョイントをすこしやったよ。ライトスタッフだから大丈夫だろうと思って。そしたら凄く腹が減ったんだ、ホラ知ってるだろ、樹脂は腹が減るし味覚も鋭くなるんだ。それから……どうしたかな、よく覚えてない、何か食うもの作ってたと思うんだ、それっきり記憶ないなぁ、ガス台どうだった?火、ついてた?良かった、自動的に消えたのかもしれない。あとは……夢を見たな。
「教えてよ。ウイリーの夢、興味あるの。エリヤみたい」
前の続きみたいだったな。蟲のやつ。
「ムシ?前に言ってた幻覚の寄生虫?」
幻覚じゃないあれは夢で見たんだ。幻覚はあれだろ、鏡の前に立ったら右腕が裂けて、そこから出てきた別の腕に首を締められる奴じゃないか。それに今回のやつは、手首を切って中の蟲を出そうとする奴じゃなかったよ。
不思議な感じだったな、最初一面真っ黒なんだ。たった一点白くて、よく見ると蛆みたいな蟲なんだ。それがまわりの黒い部分を食べていくと、どんどん白い部分が増えていくんだ、白いのは全部蟲で、黒い部分を食べるごとに増えていくんだ。それで今度は周りじゅう一面白い蟲で埋まって、黒い部分がぽつぽつ残ったぐらいで、形勢が逆転するんだ。黒い部分が黒い蟲になって、辺りの白い蟲を食べて増えてくんだ。ずっとこの繰り返しで、最後は二種類の蟲が互いに相手を食べようと追っかけあうようになるんだ。辺りがだんだん灰色になってきて、いいなって思ったよ俺。
「どこがいいって感じたの?」
彼は押し黙ってしまった。手を頬に当てて何かを考えていた。それから、前髪を両手で掻き上げて、わからないんだよ、どうしてこうじゃなきゃいけないのか、と言った。
「わからないけどいいって感じたのね」
ちがう、そうじゃない。いいって感じるところは解るんだ。
何故か彼は涙を浮かべていた。そして、でもヘーデルは違うって言うよ、と言った。
「どうしたの。私、何か違うの?」
ヘーデルは違わないよ。ただ、ヘーデルは、生かされていることをどう思う?いい、聞いてくれる?
ウイリーはどこか足りない人のように首をかしげて、十代の少女にも似た、現実離れした言葉を喋る。子供がいてもおかしくない歳になって、なんと未完成な人だろうか。それでいて、一面では責任ある仕事につき、たけた洞察力を見せる。
「話して。みんな私に聞かせて」
生き物はさ、生まれてきた価値とかに関らず生物である以上生きようとするじゃないか。それは素晴らしいよ、でも意味を考え出したらいけないんだ、意味は保証されていないんだ。どうして同じように素晴らしい他の生物の犠牲の上にしか成り立っていかないのかは考えてもどうしようもないことなんだ。
ごく一部のバクテリアとかを除いて、何かが生きるためには他の何かの権利を奪わなくちゃいけないように出来ているのは何故だろうって考えて、それであいつらすごいって思ったんだ。あいつらって、蟲だよ。蟲は自分の影を食べて生きていけるんだ。どんな生き物も、自分のために他者を犠牲にしているのに、蟲だけはそこから開放されて、誰も巻き込まない、閉鎖された、安定した世界を作ってる。
「違うわ、それは間違ってる。それは生物を個別に捉えすぎた考えだわ。抗生物質的よ」
私は強く言って、彼の、顔を覆っていた手をとった。
だからヘーデルは違うって言うよって、言ったじゃないか。彼は口の端を下げて、小さな子供がやるように非難した。
呆れた。動物がかわいそうだといって菜食主義者になる程度の同情と何ら変わらない。植物の命を動物よりも軽んじる程度の軽薄さだ。
「あたりまえよ、私は違うって言うわよ、私はウイリーが聞きたくないことでも言うんだからね。
生物は全て巨大な一つの生き物、器官のようなものなのよ。ばらばらなものじゃない。だからエネルギーの受け渡しがあって当然なの。他者を犠牲にしたくないというなら、この世界はまさにあなたの理想のシステムだわ、生態系は常に自分の一部を食べているのだものね。
あなたはウロボロスが幸福だとでも言うの?幸福なんかじゃないわ。馬鹿じゃないの、生きる事が残酷なのはあたりまえじゃない。何も変わらないの、閉じこもっても何も良くなりっこないの。
それでも辛いのは嫌でしょう?気持のいいことがいいでしょう?生きるって、いっぱい汚いの。粘っこいの。世の中は汚いんだなんてわかったような事を言っても、割り切れやしないのよ、どこかで自分にはいいことが起こるんじゃないかって、つまらない期待してるのよ。だから凄いんじゃないの。本当に苦しいことしかなかったらね、誰も生きてないの、拾った野鳥を育てようとしても、籠に入れるとすぐ死んじゃうでしょう、苦しいことしかなかったらね、飛べなくなったら鳥は苦しいことしかなくて死んじゃうの。ウイリー生きてるじゃない馬鹿、本当に苦しかったらあんたなんかとっくに死んでるんだから」
私は心の中でウイリーの頬を張った。彼は口を空け、言うことをなくしたように驚いていた。なんだか、たまらない気持になって、彼が掛けていた掛布の中に滑り込んだ。
私はウイリーを見た。ウイリーの一部一部を詳細に、解剖して部位ごとにラベルのついた容器に入れるように見た。
私はウイリーのテグスのように透ける髪の毛を見た。にこげのようにやわらかく、癖のある赤い髪の下に、いつも寄って皺の立つ眉間がある。前髪と痩せくぼんだ眼窩が作る影の奥に、ガーネットにもスグリの実の朱色にも見える瞳がある。目の縁には涙が今にもこぼれそうな様子で溢れていた。眼球はやや黄濁している。
鼻は高く鳥の骨のような鼻筋が、顔の印象を鋭くしている。皮膚は灰色かかって、茶渋の染みた素焼きのようだ。張りを失っていても、元々頬が薄かったため、あまり垂れた印象はない。肉が消えたような痩せ方をしている。
唇は少しあいている。薄荷のような匂いがする。角質化したようにひどくひび割れていて茶色い。一面かさぶたになっているのかもしれない。唇の奥に根が黄色くなった歯と、白っぽい歯茎がある。
血漿のような塩味と、胃の薬になる薬草のような、苦い味がする。舌は冷たく、乾いて張り付いた。
白客は生きることの苦しみから開放された世界に住んでいたんだ。彼は膝を抱き、天井と壁の境あたりを眺めながら言った。
先達はみんな死んだけど、それは楽園の所為じゃないと思うよ。楽園でスポイルされて死んだって、思いたがる奴は多いけど。ヘーデルも本当はそうだろ、楽していいことばかり起こる世界に住んでる人間がいるって、いい気分じゃないんだろ。
隔壁の中は、本当に屑みたいなところだよ。血統がそのまま実力の優劣に繋がるんだ。俺ら、いい家のやつって、育ちが優れているんであって、遺伝的に優良だとかそういうのは胡散臭いと思ってたろ。育ちさえ良かったら自分もいい人間になれたんじゃないかとかさ。すごいよ、生まれが悪い奴は、努力すると同情されるんだぜ。努力しなくても、親の血が良かった奴って、本当に何でも出来るんだ。コンピュータとか、触っただけで動く奴いるもん。無理だよな、外国人が入ってって、まじめにやってこうって。俺が四千行ぐらい構文書いてる傍で、血のいい奴が何もしないで椅子に座って、仕事量同じで、それで成果主義だとか言うし、嫌なところだよ。
それでも俺は楽園が悪かったって思いたくないよ。そういう場所が人類の歴史の中で一回ぐらい実在したっていいだろ。
どんなにウイリーが切望しても、世界は閉鎖できない。なくなった楽園は逃げ場所にならない。肉体を否定して脳だけで生きた昔の人の神話は私だって知っている。猿の脳に快感を感じるパルスだけ送りつづけると、四〇時間ほどで死ぬそうだ。ウイリーが逃げ込んでいる下らない薬も、今はまだ彼を殺さないだけで、猿のパルスと同じだ。生きて、ちゃんと苦しむ、ただそれだけのあたりまえのことが出来ないなら、いずれ死ぬ。
私はもう、生きていれば、いつかいいことがある、とは彼に言わないことにした。下らない薬でも、一時的に快楽を与えているというなら、所詮は「いつかあるはずのいいこと」からは逃げられていないのだ。彼は私よりずっと頭はいいから、そんなことはとうに知っていて、その上で納得のいかない感情の一部が彼を馬鹿な振る舞いに走らせているのだ。
私はウイリーが、私が構うから手を焼かすことを知っている。そうだ、彼は強いのだから、とっとと棄ててしまえばいいのに。ウイリーの家族のように。しがらみが煩いというのなら、誰にも名前を呼ばれないところにでも行けばいい。
それが私に出来るのか。違う。考えると感情が乱れる。いらいらする。わかっていることと出来る事は違う。馬鹿は私だ、泣きついてくるとすぐ甘やかす。彼は脅している。言うことを聞かないと、死ぬよ。鎖骨の下が痛い。いらいらする。ウイリーがまた泣いている。薬が切れてきたのか?私はいらいらする、胸の下が変な感じだ、彼が泣いている、子供か?一体私は何をしているのだろうか、ごめんなさい、いらいらする、一体何だ?いらいらする、ウイリーが、ごめんなさい、いらいらする、脅しか?肺が重い、うるさい、ごめんなさい、重い、いらいらする、ごめんなさい、うるさい、なにをしているうるさいごめんなさい泣いているいらいらする。
「ウイリー、うるさいよ、もう寝なよ。薬抜けてないでしょ、私疲れた。重いのよ、私だってあなたの世話するために生きてるんじゃないの。いますごく不愉快だから、あまりイライラさせないで」
私だって、脅して彼を支配できるなら、そうしたい。
私の、生きていて楽しいことは、何なのだろう。
眠っている彼は、ほとんど動かない。寝息もなく、人形のようだ。死体のようだ、と一瞬考えたが、それよりももっと作り物めいていた。はじめからウィリアムという生きた人間は存在せず、よく出来た人形が喋って動いていただけなのかもしれない。もし人形だったら、誰のための人形だろう。もしウイリーを人形に出来たら、私は彼にまつわる不快な一切を払拭できるのだろうか。痴呆の母親を殺した男は、生きた母親を否定して、母親人形にしたかったのかもしれない。力で彼を支配できたら、私は楽しいだろうか。私は確かに、ウイリーを支配したいと願った。でも、支配して、どんなウイリーに作り直したいのかがわからなかった。
煙草が吸いたいと思った。買い置きはまだ衣装箪笥の私の領域に一箱あった。衣装箪笥の奥の鏡が、ひどい顔を映していた。そうだ、この鏡だった。まだ同居していた頃、ウイリーが、この鏡の中の像が自分の首を締めようとするといって泣いて恐がるので、彼の代わりに鏡を外してやったことを思い出した。まったく、こんな思い出しかない。
座る場所がなかったので、寝台から一番遠い部屋の端に座り込み、絨毯に灰を落とさないよう、枯れきった観葉植物の鉢敷きを、崩した脚の上に置いた。時間の感覚が失せていたが、向かいにある機械の電子表示を見ると、ウイリーが眠ってから一時間経っていた。
ウイリーは一見、リストカットして運ばれてくる女の子達と変わらない。私の内勤にはそうした子がよく来る。今日のような疲れた日は煩わしくて、あんな連中は放っておけと思ってしまう。しかし、彼女らもいつしか狂言の果てに、手加減を誤り本当に死んでしまうものだ。でも、ウイリーは違う。狂言と本気と計算ずくの手加減が交じり合って、まるで何人もウイリーがいるようだ。
彼は随分前から乖離している。ただ甘える為だけに死のうとするウイリーは、突き放しても見せしめの行為をエスカレートさせたりしない。そこが私には良くわからない。恐ろしく狡猾なのか、解離性認知障害のようなものなのか、それとも私が彼を買いかぶっているだけなのだろうか。
解離性認知障害が最初に報告されたのは、かなり古い。ウイリーの傾倒する、仮想現実の住人が生きていた頃よりさらに前になる。現実を生きる自分と、仮想現実の区別がつかなくなった人々は、一様にこれは本当の世界ではない、本当の世界はもっと完璧だと主張した。彼らは正しい世界の降臨を願い、ネオシオニズム運動と呼ばれる時代ののち、高等仮想現実社会を実現させた。
それが9800年前の話だ。
「他にいるの?」
唐突の声に驚いて、私は一瞬跳ねた。鉢敷きの皿が膝から落ちた。ウイリーの声は、実際の音量よりもはるかに大きく部屋の中で響いた。
「醒めたの?」
ん……、と唸って、彼はしぼんだシュラフロックの奥でごそごそ音を立てた。それから、ヘーデルだけ?誰か、いなかった?と聞いた。
「いないよ、私しか。どうしたの?また何か夢を見たの?」
「夢じゃないみたいで、恐かった。本当にもう一人この部屋にいるのかと思った」
彼は生国で子供がかいまきをかぶるように、シュラフロックをかぶって身を起こした。
「誰がいたの?」
「俺が寝てた、この部屋で、ここで。それを見下ろしてた。幽体離脱に似てたけど、すぐに偽者だってわかったよ。俺の偽者。でもヘーデルはどっちも本物の俺だって言うから恐かったよ。あのときは本当に恐かった。別にヘーデルは悪くないけど。そいつを起こそうとしたら、ベッドも部屋もまるごとレプリカだった。なんでそんな嫌がらせをするかわかんないし、ずっと上のほうで、すごい力をもった絶対者に覗き見されてるみたいで気分悪かった。実験動物を迷路に入れて知能テストするみたいな、プラスチックの匂いがする作り物の世界だった。
ヘーデルは生身だったよ。俺が気を付けてって言う前に、プラグを踏んで足を切ったんだ。血が出てたから、ヘーデルは偽者じゃないって解った。それと遠くで、ずっと唸る音がしてたな。波の音か、吹雪の風の音。ヘーデルが、雪が降ってるって言ったから、外に出たら、もこもこしたのが積もってた。俺はすぐに、毒の灰ってわかったから、触るな、かぶれるぞって叫んだら、ヘーデル、どうしようもう触っちゃったって言って、俺の服で手を拭いたよ」
あれは参ったなぁ、そういってウイリーは、空気を漏らすように笑った。私は彼が普通に笑うので、少し感動した。
私はこぼした灰と揉み消した煙草を全て鉢敷きに戻し、それを元の吊り棚に置いた。それからまた、ウイリーの寝台に腰掛けた。
「でも、夢だけじゃないんだ、最近感覚が冴えてきてるんだ」
ウイリーは近づいてきた私に少し怯えたように引いた。それは、先ほどの笑顔と反対に、いまもって彼の状態が悪い方に向いているように思わせた。
「今までは解らなかったんだ。ようやく確信が持ててきたよ」
ウイリーは掛布の奥で、赤い目を嵐の灯台のように光らせて、早口になるのを止められずに興奮していた。突然物が憑いたように饒舌になる。
冴えてるんだ、本物と、そうでないものが、前よりずっとはっきり見える。薬によってはそれに近い見ものが見えるような気がするのもあったけど、そんなのはヘーデルも言ったように、幻覚、擬い物でしかなかった。今はわかる、さっきの夢でね、俺は俺を見ている天上の監視者を感じたんだ。聞いたんだ、嵐のような、監視者の音を。
やっぱり間違っているのはどちらかなんだ。俺か、世界か、たぶん世界のシステム自体は問題ないんだ。それは俺のほうが逸脱してるんだろうけど。システムじゃなく、世界自体が擬い物なんだよ。よく出来たレプリカ、いや、よく出来てすらいない。俺にはすぐ偽物だってわかった。ただ、ルールは本物だからわからないんだ。今俺たちがいるのは作り物の世界なんだ。俺たちは誰かの仮想現実の登場人物でしかないんだ。
影なんだよ。だから探さなくちゃならない。どこからか照らされている光が、本物の何かに当たってできた影が俺たちなんだ。影は光を指して歩くことは出来ないかもしれない。でも、光と影の間に立つものを見る事だったら出来る。
そのことに気付いたら、もう一生それを探すしかないんだ。偽物の世界で本物を探して歩くしかないんだ。解る?わかんないと思う、でももう決めたんだ。
たとえ世界から乖離することになっても、俺はこの世界を出るよ。本物に会うんだ。
「夢みたいなことをいつまでも言ってるもんじゃないわ!あなた認知障害を発症してるのよ」
精神病なんかじゃない!彼は叫んで、掛布を剥いで激しく頭を振った。ヘーデル、見えないのか?本当はわかってるくせに!
全部お芝居なんだ。シナリオで決められてるんだ。俺たちは本当の意味で生きてない、俺たちを演じてる誰かがいて、その表面にしか実在してないんだ、わかんないの?自分のことだろ、わかんないの?
現実は夢よりもっとひどい。今俺が何を見てると思う?記号だ!俺を表す記号、絵があって、字の記号があって、ああ、世界はアニメーションみたいだ。紙に書かれてる。誰か見てる、始まりから今も、ずっと見てる誰かがいる。
他に誰がいる?俺と同じ顔の男だ。俺を演じてる役者だ。俺と向かい合ってる。畜生、あいつ鏡を見てると思ってやがる。糞、でも自分の思い通りに動けない。そいつと同じ動作しか出来ない!お前は誰だ……違う、俺は記号だ!俺にはト書きしかない、ああ、なんてことだ、あいつは自分を本物だと、受肉した人間だと……俺という記号のための代理人に過ぎないくせに。
酷いのはどちらだ。俺か。フィクションの人物でしかない俺か?生まれ持っている人格を省みられない、俺を演じることだけを期待された役者の方か?
……ヘーデル、俺は確かに、本物の俺か。俺は本物の生き物か?
そうよ、決まってるじゃない。私は彼の手を取り、しっかりと包み込んだ。汗ばんでじっとりした彼の手は、堅く握り締められている。
俺が本物なら、俺も生き物の大きな生態系に組み込まれて、自分の一部を食べながらサイクルを繰り返してるんだろ?そうね、その通りだわ。
「じゃあ何で違うんだよ!!」
突然の慟哭だった。彼の激しい泣き方は、今まで彼が溜め込んでいた怒りと苛立ちの傷の深さを示していた。私にはそれだけの傷を受け止める準備が出来ていなかった。彼を抱き締めようとしたけれど、私を振りほどいて叫びつづけた。
もういいよ、皆わかってないんだ。この世界が何で出来ているか考えもしない。映画?舞台?小説?仮想現実?まだ誰かの頭の中に浮かんだアイデアでしかないかもしれない。なんでそんなこと知ってて黙ってられる?
俺は嫌だよ、俺は絶対的に生きたいんだこんな偽物じゃなく!
ウイリーは立ち上がるとシュラフロックを掴んで放り投げた。それから寝台を飛び降りると、左側の書棚の物を掻き出しては投げた。私が恐くなって、駄目まだじっとしてて!と叫んでもやめなかった。
「出してくれよここから!!聞いてるんだろ、俺の考えてる事も全部わかるんだろ、そもそも俺をこういう風にしたのはそっちじゃないか。そんなことなら創らなければ良かったんだ!
ここから俺を出せないなら俺なんか創るべきじゃなかったんだ!」
私は恐くて、恐くて、まだ少し震えの残っていた彼の足を払って引き倒した。どこかでケーブルの先のプラグがはじけて跳ねた。
本気を出せば私が押し倒したところで振りほどくことなどいくらでも出来ただろうが、依然彼の躰を支配しているのは薬と熱だった。
嫌だ、そんなのってない。泣き言を言いながら子供みたいに頭を振る彼を、今度こそ抱き締めてやった。
ウイリーは目を閉じて、静かな呼吸で私の右肩に顎を乗せている。
何の薬によるものか不明だが、ウイリーは今極端に過敏になっている。やはりハイサンベンタシンだろうか。今の状態は所謂トビとトビの狭間、わずかに正気が戻って他に注意を向けられるようになった状態である。鬱でも何でも、少し回復しかけが一番危ない。暫く寝かせたというのに、まだ薬が効きつづけていて、口にする言葉は取り留めない。さっきはまだムシがどうだこうだと言っていた。
ウイリーは、本当は強くて私など及びもつかないような絶対的な力を持っているけれど、やはり弱々しくて子供のようにしか見えなかった。彼の祖父と同じだ。会ったことはないけれど。
ウイリーの祖父は、他者が自分を愛するようにすることに長けていた。媚を売るのでもなく、必要以上に自分を良く見せる努力をするわけでもないけれど、彼はそう一種のカリスマがあった。人に愛される能力だ。彼を知る人物は皆この能力に惹き付けられた。でも彼を非常に良く知る人物は、その能力故に何の努力もなく全てを手に入れる彼を憎んだ。ウイリーはその中の一人だった。ウイリーは何かと「俺の爺ちゃん」の話をした。爺ちゃんが青年将校だった頃の逸話。マリーネきっての提督だった頃の武勇伝。黄金時代の政治手腕。演説と四百万人の皆人一斉唱。
それを語るときのウイリーは、憧れの中に一片の嫌悪を含んでいた。尊敬している、すごいと思う、一族の誇り、でも自分はああなりたくない。私の生国ではそのような人物を神に召されるもの、という。
私に言わせれば、ウイリーも大して変わらない。
ウイリーの強さは、彼が正しいということだった。今までも彼は何度も物の本質を突くようなことが見えたし、それを言葉にする時は必ずそうなった。情報を支配することは、あらゆるものを支配することだ。ウイリーには、情報を選り抜く力がある。力は正義なり。ウイリーは恐らく、とんでもなく正しくて、とんでもなく異端なのだ。それは私にも薬にもどうすることの出来ない、遠い場所での決定事項だ。
もし今回もウイリーが正しかったらどうしよう。恐かった。もう薬は抜けてもよさそうなのに、物が降り憑いたように喋りだした彼が、私は恐ろしかった。もし薬の所為ではなく、彼そのものがおかしくなってしまって喋っていたらどうしようと思った。
彼は軽い。乾いた木でできているようだ。汗をかいただろうに、背中はあまり濡れていなかった。私の首筋を、ねっとりと汗が流れた。私と同じ温度をもって、冷たくもなく温かくもなく、くすぐられるような自然な違和感だ。左手で何気なくぬぐって、量が多いので手を見て、青くなった。血がべっとりついていた。
咄嗟のことで、私はウイリーを突き飛ばした。ウイリーの顔が青と黄色の斑になっていた。粘度の低い鼻血が、顔の下半分を染めても止まらず、絨毯に垂れはじめていた。私は、よくわからないまま、兎に角手についた血を取りたくて、絨毯を擦っていた。気だけは急いて、ウイリーのことを見なければと思っていたが、そのときは自分のしている事が何の意味もないことだというのに気が付かなかった。ウイリーがよく見えなかった。耳の奥でざらざらした雑音が極大化して、眩暈がした。恐らく意味のない言葉を叫びながら、私はウイリーに飛びついて、彼の目を飛び込むように覗き込んだ。私の目の前で再び筋硬直が始まっている。彼は何か言おうとしているが、もう顔の筋肉が動かせなくなっていた。
瞳孔がおかしかった。自律神経がいかれている。これは本当に薬の症状か?わからない、これは気を引くための自傷行為なのか?そうしている間にも硬直は全身に現れた。
突然、何故か私にはわかった。思い込みかもしれないがわかったのだ。死の本能。生への強すぎる欲求が人を死に向かわせる力との合併症なのではないか?だとすれば
「やめろ、やめろやめろ!」
ウイリーは動かないで私を見ている。
「それ以上死にしがみついてたら、あなたの記号すらなくなってしまうのよ!」
ウイリーは、私を、見ている。肩が跳ねた。硬直後には痙攣が始まる。お願い、もう止めて、これ以上私を困らせないで。ウイリーの不健康な躰。生を拒絶した細い躰。
「やめろ!自分を殺すな!」
SCENE5 研究室
私はどうしようもなかった。何の力もなかった。嫌だ、知らない、もう知らない、やめたい。私ばっあかり、無理、もう無理、助けて、誰か助けて欲しい、そうだ、助けを呼べばいいんだ、何故考えつかなかったの。
母親を殺した男に、民生委員は、どうして殺すまで一人で背負ったんですか、誰にも相談しなかったんですかと優しく聞いた。抱え込むなというのは、理想論だ。転がりだしてしまえば、壊れるまで背負うこともある。
病院に運べばいいと気付いたときは、火を発見した最初の人間のように素晴らしい考えだと思った。
高級な水銀光源を使った天井は、延々と続いている。築四十年目のコンクリートは、元は白く塗ってあったはずだが、今は錆色の染みが天上近くから垂れ下がっている。私はベンチに座ることも出来ず、李先生の部屋の前に立っていた。
「着替えないのか」
グラフは、鈍色の合成革が剥がれて黄色いウレタンが覗いているベンチに、長い足を窮屈に組んで座っている。神経質になっているのか、煙草で空いたと思しきベンチの穴をいじっている。
「一回着替えたのよ、いいわよ一寸血がついたくらい」
十四万の夜間料金を払ってグラフは飛んできた。私のように感情的にはならず、冷静に先生の話しを聞いていた。その後、私が最初にウイリーを見つけたとき、すぐに病院に連絡しなかったことを呆れていた。それでも、自分はその場にいる事もなかったのだから、対応の優劣を言う資格はないのだと私に謝った。私は私で、何かあったらすぐ知らせてくれと言われていたのに一番連絡が後になってしまったことが、大層申し訳なかった。
先生に伝話してから、何があったか良く覚えていない。この期に及んで警察のことが頭にあって、一般夜間を使うな、救急車両を使うなと保身に走っていた気がする。居心地が悪い。今日一番惨めで格好悪い話だ。
夏が終わればすぐ冬が来る。この間まで半袖で過ごしていたからといって、ごまかせないほどに病院の廊下は寒かった。
ドアが内側から開いた。
「ヘーデル、入ってもいいですよ」
ドアと先生のからだ越しに、ウイリーの足が見えた。
「死にゃしませんよ、さ入って。寒いでしょ」
部屋は病室でも診察室でもなく、先生の私的な研究室だ。大病院というのは大抵、不動産のない開業医に貸すためのスペースをいくつか用意しているが、李先生は買い取りで一室持っていた。自分の病院を持つ開業医はあまりこういうことをしないのだが、李先生は昔借りていた部屋をカスタマイズしすぎたというので、買わされたのだ。
ウイリーはパイプ製の堅い寝台に横たわり、弱ってはいたが生きていた。顔は灰色になっていたが、微かに喉が動くのが見えた。
「どうなんだ温慈」
グラフはラボに入ってこないで、ドアのところから見ている。嫌な思い出を未だに忘れられないらしい。李先生は糸目を更に細くして手招きしているが、グラフははっきりと迷惑そうだ。
「あとは本人の生きる意思次第です。お入りなさい、黒茶を淹れますよ」
ラボは薬湯の匂いのする蒸気と消毒石の匂いで、呼吸のたびに石鹸水のような味が舌に残る。グラフは、この匂いは絶対に好きになれないといって、眉間に皺を寄せて藤椅子に座っている。部屋の半分は手前と奥で透明ビニールシートに区切られて、奥で死体を解体している。
甘い黒茶の匂いは、日向の犬の匂いに少し似ている。足元の熱灯が虫の羽音のような音を出している。
「ヘーデル、私は帰ります。鍵はもって行きますよ、明朝の五時には向こうを開けますからね。あなた今日休みなさい。ここ閉められませんから、居て下さいね」
「私はウイリーを看ています。先生、ありがとうございました」
「寝なさいね。頑張りすぎても駄目。それじゃお休みなさい」
顔には出ないが、李先生は自分の時間を崩されるのを嫌う人なので、きっと怒っているだろう。前にもウイリーが担ぎ込まれたとき、笑った地顔のまま、あなたのような大馬鹿は、大腿の肉を血管だけ残して削いで、挽いて玉葱と混ぜてから卵で閉じて、腹壁に穴をあけて直接胃に入れてしまいましょうか、といつもの口調でさらっと言ったので、大層恐かった記憶がある。
李先生が出て行ってしまうと、部屋が急に冷えた。
当のウイリーは寝ている。ひょっとして、意識は醒めているのかもしれない。
この部屋で横になれる場所は、ウイリーの寝ている簡易寝台か、死体を載せる手術台しかないので、私は小さな机に藤椅子を寄せて寝ようと思った。
「あなたまでここに居ることないのに」
「今戻ったらまた馬鹿高い通行料取られるだろ」
グラフもラボに残っていた。一度責任を負ったら、最後まで負い続ける性質なのだ。私に似ている。
私は湿った秋口がこんなに寒いとは思っていなかった。熱灯を点けていても、皮膚の表面を細かい震えが這う。貸してもらった毛布が暖かくない所為もあるだろう。
「机、使いなよ。私の椅子背もたれあるから」
グラフは短く首を振った。俺らは鍛え方が違うんだよ。耐寒訓練だと思えば楽なもんだ。よく見ると、引き革の長依の下に、軍装の防寒服をしっかり着込んでいた。
「らしくないな」
「え?」
「二回も吐血したんだ。いつもならもっと的確な処置が出来たはずだ。何があった」
全部を彼に話した。キッチンでの事、バスルームでの事、ウイリーが見た夢のこと。もちろんそれはグラフが聞いたことの答えにはなっていなかったが、何故自分があんな行動をとったかは私にもわからないのだから、答えようがなかった。
「ウイリーもウイリーだわ、もう十年も」
「そんなになるか」
グラフは感慨深げにため息をついた。あいつ変わらんな、思い出したよ、士官候補生の頃から突然居なくなったと思ったら入院してたとか、と目を細めて言った。
私は机に臥して寝るのにも微妙に無理があったので、どうしようかと押したり引いたりしていた。するとグラフが煙草を咥えて火を出そうとしていたので、私は思わずウイリーを見た。ウイリーは変わりなく、じっと眠っていた。グラフも私の言わんとしている事がわかって、種火を止めてウイリーを見ていたが、私を見て目があった。
「……要る?」
「ありがとう」
私たちは熱灯を挟んで昔の話をした。ほとんどがウイリーの話。前から一度聞いてみたかった、ウイリーが綺麗になったと思うことを聞いてみると、驚かれた。温慈もそんなこと言ってたな。李先生が?外科の腕以外はうさんくさいところもあるが、変なところで目がいいからな。俺もあいつが綺麗になったっていうのは、言いたいニュアンスはわかるよ。変な意味じゃないけど。
「さっき今日は私らしくないって言ったよね。それはたぶん番狂わせがあったからだと思うの」
「番狂わせ?」
「そう思いついただけなんだけどね。ウイリーね、役割から逸脱しようとしたのよ」
私は、ようやく輪郭の見えて来たイメージを、捕まえ捕まえ説明した。
「要するにね、意味論の問題なの。私たちは生きている以上は世界に対して果たすべき役割があって、それら一つ一つは一見無意味にしか見えない。でも、長い目で見れば、歴史という形で収斂していくのよ。それを世界精神と言った人もいるわ。ウイリーはその歴史から離脱しようとしてる。私にはそう見えたの。
集合無意識みたいな大きなものを離れて、海から陸に上がった最初の魚みたいに。進化は本来善じゃないわ、進化を迫られることは、当事者は誰も望んでない。歴史に組み込まれて、過去のことになってしまえば、まるで優れた新種になったように評価されるけれど。
ウイリーは、自分が進化させられていると……なにか大きなものに歴史上の意味を注目されていると思ってるのよ。
あの人、鳥みたいだわ。でも、卵の中で育ちきれないの。それなのに必死に殻を割ろうとしてる。卵の中に居ながら空を知ってるから。でもそれは駄目なの、未熟な雛は生きられないもの。
私あの人が恐い。どうなってしまうかわからない。訳のわからないマクロに取り付かれて、いまここにあるミクロの調和を変えようとしてる」
言っていて自分で訳がわからない。言いたい内容が、ではなく、ウイリーがだ。こんなパラノイアな人だったのか?
「メタ認識なんて言い出す人じゃなかった。私ロマン主義のイロニーなんていらない。本当に病気で壊れちゃったらどうしよう」
話しながら涙が込み上げてきた。視界も、肺のあたりもぐちゃぐちゃになる。
「……その、なんだ、俺は今のヘーデルの話の五割も理解できてないと思うんだが、ウイリーは今までの幻覚以外に、なにか宗教的なものにはまってるのか?薬から宗教にいくのはよく聞く話だが」
「ようっ、するにっ!」
私は肘で机を叩いた。
「ウイリーは!私たちも、現実的なこともなにもかも!
放り出しても、それが逸脱じゃなくて正当であるという大義名分を!振りかざして私に従えって言うのよ!
たしかに、どうしようもなく我侭で!問題行動が多くて!いいか悪いかで言ったら悪いほうの人だったわよでも!
自分が悪いことしてるって、そこまで曲げたりする人じゃなかった……私たちは問題はあっても、十年やってきたの!十年!
ゲゼルシャフトでもゲマインシャフトでも!
私は私で!ウイリーはウイリーなの!なのにそれをやめるって言うの!
妄言なら、薬でラリってるだけなら、なんでウイリーの言葉がこんなに恐いの?何でウイリーは本当に意味を変えてしまうようなことを言うの?
ウイリーが言うことはいつも当たるの。だから恐いの。ウイリーが変わったら、私の世界もはつかねずみと小鳥と腸詰めのように消えてなくなってしまうのに!」
私はいつ立ち上がったのだろう。毛布が机の下に落ちていた。前を見ると、グラフが凍り付いていた。紙巻の灰が人差し指の第一関節より長く伸びても気付かずにいた。
「……何?鼠の腸詰め?」
「郷里の昔話よ」
ウイリーは起きなかった。熱灯の羽音に似たノイズと、黄色い点滴が落ちる音以外聞こえなかった。
SCENE6 退室
あまりに寒いので目が醒めた。最初自分の置かれた状況がわからず、はっ?と声に出た。思い出した、ここは李先生の研究室だった。半身を起こして初めて、自分がウイリーの寝かされていた寝台で寝ていたことに気付いた。誰も居ない。そう思ったとき、ちょうど李先生が入ってきた。
「ウイリーは?」
「起きてもっといいベッドのある部屋に移ってますよ」
ウイリーは五階の一般病室にいた。四人部屋だが寝台は一つしかいない。ここも開業医に貸す部屋で、先生の配慮だろう。グラフは居なかった。
かなり高くなった朝の光で、床と壁が白く焼け、融けて見えた。白いカーテン越しの光で、ウイリーも光っていた。目覚めてはいるのだろうが、まだ目を閉じたまま仰向けに寝ていた。窓を背にしてスツールに腰掛けると、遮る影を感じたのか、ゆっくりと目を開けた。
目が醒めた? あぁ……悪くないよ。 そう、大丈夫ね。 ………ヘーデル。 なに? ……ありがとう。
「いんで、気にすんね。そだじ、けそけそすぃんはおめのげことだぇよ」
「んだてえよ、おれもこでが謝っとかんとけでやえか?あど覚えとかんけ」
「く……あはははは」
「はははは」
そして、二人して笑った。ウイリーの土地言葉を聞いたのは久しぶりだった。笑ったところを見たのはもっと懐かしい気がした。
「ヘーデル、南部だっけ?」
「グーテンベルクよ」
言葉は、変わんないね。本当に変わらない。私がそう言うと、まぶしそうにぼんやりと私を見て、どうしたの?と小さな声で聞いた。
「グラフとね、そういう話してたの」
「居るの?」
「帰っちゃったみたい」
グラフが交通料金気にしてた、と言うと、ウイリーは仕掛けたいたずらが上手くいったように笑った。笑い事じゃないのよ、わざわざ来てくれたのよ。
「だったら、顔ぐらい見せろよ」
「あら、グラフは無職じゃないのよー」
「なんだよそれ」
ウイリーが半身を起こそうとしていた。自分でやりたがるものだと思って手を出さずに居たら、手伝ってよと非難がましい目で見られた。本当に子供のような人だ。
また新しい夢を見たよ。地下牢で、詩を創ることだけを生き甲斐にし生きてきた冤罪の囚人のような口調で彼が言った。
「やっぱり蟲の夢でね、何かあるのかなぁこれって、同じようなのばっか見るからなぁ。
最初に出てくるのは、いつもの白い蟲なんだ。それがずうっと上のほうに這っていって、揚羽みたいな蛹になるんだ。いくつもあってさ、冬の景色で。そしたら太陽が昇ってきてぱあっと暖かくなって、ああ春が来たなと思うんだ。
蛹が次々羽化してくんだけど、それがおかしくて、本当なら白い蟲からは赤い蝶が生まれるはずなのに黒いのばっかなんだ。なんでだろって思ったら、塔守りが、あれは生まれなかった鳥の魂だって教えてくれた。
空が凄く綺麗で、あと、石の塔があったな。塔からは遠くに真っ白な海が見えたよ。海、行ってないな。また行きたいよ」
世界一の海軍を持つ彼の生国では、海が原風景だろう。
「行きましょうよ、海。流氷が来たら。港は凍って、何キロも海を歩いていける」
「でも行けないかもしれない。旅に出ようと思うんだ」
「だったら海のあるところへ行けばいいじゃない」
彼は微笑んで首を振る。仕事を辞めたら旅をするのが夢なんだ。
「行きたいところには、海はないかもしれないんだ」
「それはどういう意味?」何千何万の蝶の羽ばたき……
はっとした。今のは何?ウイリーの目は、祖母の目と同じだった。私は弾かれるように立ち上がった。だめよ、と彼の肩を掴んだ。あなた一人でどこかへ行ってしまう気?
しょうがないんだよ!いずれここにはいられなくなる。私の影の中で、ウイリーの目は暗紫色に光っていた。この世界から出たいんだ。ここから出られる扉を、早く探さないと。最後の蝶が通る前に。
そこにはもう単純な悲壮感はない。表層に見える感情よりも、はるかに遠いところからウイリーの声は染み出ている。
「ウイリー、ウイリーどうして、そんな事言うの?自分が置いていかれないためには私を置いていってもいいの?私のこと」上昇する流れに乗ってどんどん遠くなって行く……
今のは何、私に見えているのは何。
「ごめんヘーデル、俺自分のことしか考えられなくて、そ」彼が、遠い。病室も、周りの景色も、遠い、まるで、私の、身長が突然、伸びて、とても高い、所からあたりを、見、回しているような、高……。
「ごめんじゃないわよ!いつも言葉ばかり、あなたが私の事本当に考えてくれたこと、ある?いつだって自分を庇ってばかり。生きるのが嫌になったから、別の可能性に逃避してるだけじゃない。何が本当の世界よ、何が……」遠くから、ウイリーが、小さく見える。
「違う!!」「行かないで!!」
私たちは、遠いところで同時に叫んだ。そして世界を共有した。
雛は、自分が空の下に生まれないことを知っていた。ここは空気が淀んでいる。風が澱をためている。空のない世界では生きていけない。だが、いずれは生まれなければならなかった。殻の中で成長を止めるのが、雛のせめてもの抵抗だったが、それももう限界に来ていた。雛が成長をとめたまま、殻は外気から雛を護る耐用年数を終えようとしていた。
その時、雛の中に別の声が起こった。私たちに任せて、必ずあなたを空へ帰してあげる。雛は声を受け入れた。やがて、卵に寄生した蟲が孵化し、雛の躰を食んで成長した。終に蟲は魂を運ぶ黒い蝶となって、雛の魂とともに、遥か高みへと舞い上がっていった。何千、何万の群になって。
それは、私でもウイリーでもない、世界観測者の心象風景
コレー・コスムが殻の中で見る夢
気が付くと、瓦礫のどこまでも続く荒野も、紅色の美しい空も、遠い昔に見た映画の記憶のようだった。私はいつもの目線の高さで、陽だまりの白い部屋に立っていた。
「ヘーデル、俺一人では行かないよ。ヘーデルにも見えたんだろ。一緒に行こう」
彼は、肩を掴んでいた私の手を取ると、自分の手を重ねて強く絡ませた。
私には二つ選択肢がある。ウイリーの言葉を、古いカテゴリーに入れて白昼夢にしてしまうのか、彼の正しさを信じて、定義のない未知の認識を受け入れるかだ。
「一緒に行くって約束したら、私を一人にしないで居てくれる?」
「俺の話信じてくれるの?
恐くなかった?俺は今でも恐いよ。
あの門の向こうに、脚本のない世界がある。絶対者の操り人形にされない外への出口だ。被造物から開放される自由の出口なんだ」
私たちは互いの目を見た。何度も頷くと、涙の粒が飛んでシーツに染みた。
私は、ウイリーの絶望を受け入れない。ウイリーが見せたものに対して、いつかきっと、古い価値観を繋ぎ合わせて言い訳を探すだろう。しかし何をしても、現実がとても嫌なものだということからは逃げられない。彼がゲマインシャフトを飛び越え、突然マクロな世界にシフトするというのなら、私は肉の重みで醜く潰れた現実に足をつけて、対等に彼を見よう。
ウイリーが肉体を棄てて行こうとしている次元が実在することは、最悪な現実だ。
それでも、いつか腐る躯とわかって、生きた私に彼が手を伸ばしてくれたのなら、私はついて行こう。私は十代の少女のように、死後の来世を信じるなんて御免だ。あくまで、生の延長として、奇麗事など言わせない。
「ウイリーが私に見せた『出口』を、もし一度でも現実逃避の姑息な理由にしたら、私は絶対行かない。私はあなたが全部を本気で生きているか、監視するためについていくのよ」
「約束するよ」
その時ドアがノックされて、先生が入ってきた。
「お話、おしまいですね?ウイリー、ヘーデル、朝餉でもどうですか」
バタとコオンドビーフと馬鈴薯パンケーキのいい匂いがした。扉の向こうにグラフが居た。ウイリーが彼に気付くと、軽く手を挙げた。
ウイリーはもう平気だと言ったが、先生は一日彼を入院させた。グラフが居なかったのは、職場に連絡を入れていたからだった。
私達は自分の生活に戻らなくてはならない。私はもう疲れて、思えば昨日の朝から丸一日家に帰っていなかった。
駅まではグラフといっしょに行った。昨晩とうってかわって暖かい。光は乱反射して、強い露光で日向が白く抜ける。
「グラフは、自分が本の登場人物なんじゃないかと思ったことはない?」
「またその話か。あるよ。別に何の感慨もなかった。たまに幼児体験でその手の空想が恐かったって言う奴は居るけど」
「私も、別に何も感じなかった」
私は圧倒的な現実体験の中にある。べつに私の本質が誰かの作り物でもいい。私の実存は、私の観測が決定すればいい。
私が誰かの空想の中に生まれた仮想の人物でも、私の見る私は生きている。仮想の私と言う一面が真実だとしても、今この現実に私の肉体はある。それが私の結論だ。
作り物と知った上で、レプリカの中を本気で生きるのに、躊躇することはない。ウイリーがこの世界が作り物であることに絶望して本物を探すと言うなら、私は生物の当然の意思として本物への道を探す。
駅は通勤する人で溢れ、久しぶりに人間に出会った心地がする。
互いに別の方向へ分かれて一歩目で、グラフが振り返った。
「鼠の話って、なんだったんだ?」
「身の丈の自分がうまくやっていくには、役割を変えちゃ駄目だって事!」
グラフは眉間に皺を寄せて、ああそういうこと、と言った。やはり解らない様子で苦笑して、こちらに手を振った。
私たちはそれぞれの道に進んだ。
閉幕
はつかねずみと小鳥と腸詰め
五十三軍曹
2005/2/20 初版発行
2006/1/14 ネット公開改訂版
高等人工生命研究所
http://www.hallaboratory.net/