少年と隣人の世界史



 次の三限は貴族世界史だった。
 ワーイルが衛星講堂についた頃、講堂ではようやく二限の人工知能生理学が終わったようだった。出る生徒入る生徒、長引く授業への愚痴や次の授業へ焦る声で、タイル打ちの階段は溢れ返っていた。
 ワーイルは混雑を避け、前から二列目の右翼に座った。映写教卓に衛星教師が映ると、まだ曲卓についていなかった生徒たちが、ばらばらと椅子に飛びついた。
「先週は、近代無機工業からの大陸間対立構造について説明しました。今週は近代有機生産工業の側面から見た対立構造と、大百(おおど)貴族の解体直前までが範囲になります」
 左耳に電子外耳をはめた白髪の世界史教師の言葉を、同じく左耳に電子外耳をはめた生徒たちが、電ガ板に書きとめている。講堂内には、誰かの漏らしたため息と、鉄筆が電ガ板を掻く音だけが響いていた。
 授業が「大機生産制の寡占化」に差し掛かった頃、ワーイルの電子外耳に、固有呼び出しがかかった。
『チリッ……ワーイル・イノーカ、さん、603、呼び出しです。603、呼び出し対応を行ってください。マニュアルには、ゼロ、を、オートには』
「ゼロ」
『603、を呼び出しています……外線、へ、お繋ぎいたします』
「リクエスト、port0302出力」
 固有呼び出し603は、イノーカ家の常時活性音声連絡線である。ワーイルは小声で指示を出し、電ガ板に出力を流した。電ガ板の映字域に父のサインが流れた。
[ワーイル、今月帰る予定だったが、たった今、王都空港が凍結された。知っていると思うが、最近はテロルに対する警戒が高まっている。今日の11:47付けで、民主人民党政府は対抗電子措置を採決した。だが安心して欲しい、私も母さんも安全な場所にいる。同じメッセージをエリーにも送っている。なにかあったらすぐに連絡しなさい。勉強中にすまないね。次は定時に連絡する。 AG16 24 11:56]

 ワーイル・イノーカは貴族である。
 貴族といっても、水耕四万の耕戸(こうこ)貴族である。中半日は少年学校に通い、日後と週末は地下農場で下人(げにん)たちと働いている。
 授業を終えると、寄り道せずまっすぐ帰るのが常だった。その日もワーイルは、農場から街までの近道となる鉄路に、フロウド鉱油駆動のやくざなエンジンがついた石火車(コールヴィクル)を走らせていた。サビの浮いた石火車は、すっぱい煙と水蒸気をあとに曳きながら、眼下に下駄水田(げたすいでん)の広がる丘の上を鳥のように滑った。どこまでも広がる下駄水田のはるかかなたに、ガレットン超級の水耕牛機(ぎゅうき)が、のったりと行く姿が霞んで見えていた。

 水耕農園では、もやいギシと白水葉(しろすいば)の収穫がピークを迎えていた。おりしもワーイルが地下農場に下りたときは、単座有人牛機が、もやいギシをバリカンで刈り込んだ端から、ひとかかえごとに結束して放りだしているところだった。
「ぼっちゃん、お帰りなさい」
 牛機を運転していたテヅが、テカテカの顔をほころばせてワーイルに手を振った。ワーイルも破顔して手を振り返した。
「テヅもみんなも、お昼ごはんにしよう」
 ワーイルは制服のまま休憩小屋のあがり座に上ると、保温機から十人分の飯を盛り始めた。
「ぼっちゃん、召し物につきますよ」
 テヅの妻ニコリが、胸に下げた手ぬぐいで手を拭きながらやってきた。ワーイルからひょいと飯掬(いいすく)いを取り上げ、手早く正確に飯を分けていった。
 あがり座には次々と下人たちとその家族が集まった。粗末な木机の周りを囲み、みな一様に明るい表情で、労働後のおたのしみを待ち構えていた。
 食卓には、卯貝の赤茄子煮、採りたての白水葉、ささみ豆、管海老くだえびなどが机狭しと並べられていた。
 最上座に上着を脱いだワーイルが着くと、一同黙祷の後、一斉にご馳走に手を伸ばした。
 農耕法改革で、三色五階級が「下人」にまとめられたが、イノーカ家の下人たちは元々「地下人じげにん」であった。ゆえにイノーカ家では、下人が上人と同じ卓に着くのは至極当然と考えていた。これが上代貴族であれば、下人と同じ卓につくなど考えられないことだろう。

 ワーイルが好物のささみ豆をつついていたときだった。時計は日後の三時を指していた。突如ビィーウァン、ビィーウァンと地下農場に警報が鳴り響いた。
「雨だあ」
 テヅが叫んだ。下人たちが飯を噴きながら休憩小屋を飛び出し、農場の四端に備え付けられた汚染物質排出バルブを、大慌てで開放し始めた。
「空襲警報ですよぼっちゃん!早く母屋のシェルに!」
 誰かがワーイルに叫んだが、ワーイルはそちらを見ずに、農具格納庫へ走り出した。
「姉さんが!この時間は学校から帰る途中のはずなんだ!」
 警報はビィーウァン、ビィーウァンと鳴り続けていたが、警報に重なるように、国民放送の時報がポーン、ポーン、ポーンと流れた。
「ただいまより、第六等規格区に、蛋白抗体ウイルステロルへの対抗電子措置を試行します。登録国民の皆様は、本日六時までシェルに退避してください。繰り返します。ただいまより、第六等規格区に、蛋白抗体ウイルステロルへの対抗電子措置を試行します。登録国民の皆様は、本日六時までシェルに退避してください。」
 格納庫で防護服を着ていたワーイルが顔を上げると、国民放送のプロパガンダ声が、電解雨の訪れを告げていた。
 下人たちはバルブを開き終え、牛機を使って隔壁を閉める作業にかかり始めた。ワーイルは内側から農具格納庫の二重鉄扉を閉めると、車両用エレベーターで地上に向かった。

「姉さん、どこのシェル?バス停前?今服とボンベ持ってくから!え、来るなってなんでだよ!姉さんをほっとくと恐いんだよ!」
 赤錆色の雲が空を完全に覆っていた。水銀色の雨で視界は極めて悪く、昼間だというのに光線灯がなければ足元も見えなかった。
 固有呼び出し603は、衛星圏でも地下でも通じる。ワーイルの姉エリーは、汎用シェルに逃げ込んだらしかった。姉のかんしゃくに関しては深く考えなかった。エリーは自分の格好悪い姿を見られたくないという思いが人一倍強いのだ。
 通信を切った電子外耳に、若い女性のプロパガンダ声が国民への協力を呼びかける放送が流れてきた。
『第六等規格区に、電攻武装したテロリスト「黒服党」の工作員が潜伏しています。登録国民の皆様の情報提供をお待ちしております。「黒服党」は赤の羽民族解放戦線の国定犯罪組織です。どんな些細な情報でも、当局にお寄せ下さい。専用通信番号は005、専用通信番号は005……』
 ワーイルは重い雨とぬかるむ足元に、慎重に歩みを進めた。防護服を打つ雨音が騒音の頂を超え、音と時間の感覚が失せていった。
 ポーンと明るい音が四時を打った。

 ワーイルがバス停前シェルについたのは、四時の時報からさらに国民放送が二回流れた後だった。その間にエリーからも二回、来なくていいから帰れとヒステリックな通信が入っていた。
 シェルの開閉バーを、全体重をかけて手前に倒し、バルブを左に回すと、分厚い隔併扉が少しずつ開いた。
 人の顔幅ほど扉が開いたところで、明かりのないシェルの中に光線灯を向けると、埃に反射した光が白い帯となって闇を割った。このシェルは二段部屋式になっていた。光線灯の照らす先に、中扉の取っ手が見える。
 ワーイルは小部屋に滑り込み、外に繋がっている隔壁扉を再度閉めた。汚水が入ってこないことを確認してから、ワーイルは防護服のヘッドを外した。シェルの空気は、カビと埃の匂いと、かすかに消毒薬のにおいがした。
「姉さん」
 中扉を押し開けると、中には顔も見えない小さな明かりを持った誰かがいた。どうもそれがエリーらしかった。
 確かめようと光量を絞った光線灯を向け、ワーイルは驚きのあまり中扉を閉めそうになった。

 エリーの傍らに、真っ白な顔の少女が倒れていた。少女は口元にシェル備え付けのボンベをあてがわれ、仰向けに寝かされていた。目の上には小さなタオルが置かれていた。
 そして少女を挟んでエリーの反対側に、長い黒髪の女性が座っていた。女性は少女のボンベを支え、エリーはその手元に小さな明かりを照らしていたようだった。
「ワーイル、なんで来たの。来なくてもいいって言ったのに!」
 振り返ったエリーは、少し雨に濡れたのか、服も髪の毛も湿っていた。
「開口一番それかよ……」
 ワーイルは光線灯を柄側の発光に切り替えると、防護服から垂れる水滴に注意しながら、エリー用の防護服キットとともに床に置いた。
 エリーは発光体状になった光線灯を取ると、少女のそばに立てた。女性三人の顔がはっきりと照らされ、それぞれがどのような顔なのか、ワーイルにも見えるようになった。
姉のエリーは、せんだってセミロングに切ったばかりの髪の毛から、小さなしずくを滴たらせていた。性格と反比例し整った顔は険しい。下唇を吸う癖は、思い通りにならないことに直面して苛立っている印だ。
 仰向けに寝かされた少女は、長い赤毛を三つ編みに結い、全身の肌を隠すようなタイトな黒い服を着ていた。しかし体の線が出ることによって強調されるのは、病んだ細さと色白さだった。爪も指も長く細いが、手の甲は骨ばり、繊細さよりも痛々しさを感じさせる。
 もっともワーイルの目を引いたのは、黒髪の女性だった。少女と似た黒い服を着ていたが、受ける印象は正反対だった。濡れて張り付いた服はより一層体女らしい曲線を際立たせ、見事な黒髪と相まって、近寄りがたいほどの女の匂いを纏っていた。
 面立ちはそれ以上に美しかった。母と姉が平均を超える顔を持っているため、「美人」には幻滅しているワーイルだったが、そんなマイナスが霞む美女だった。しかし、一点の妥協もなく完璧に美しい故に、あるべき欠点がない事にワーイルは気付いた。
「いいわよ、もう帰って」
 エリーは立ちはだかるようにワーイルに詰め寄った。
「何言ってるんだよ、まだ雨が降ってるじゃないか。酷いな姉さんは」
 ワーイルは押し出されるように中扉を開け、防護服のライトを点けた。そこで一旦足を止め、思いついて振り返った。姉はワーイルをにらみ、腰に手を当て仁王立ちに立ちはだかっていた。
「……う、うんわかった、帰るからさ、ちょっと姉さんも来てよ」
 ジェスチャアでエリーを中扉側に呼ぶと、扉を閉めた。
『内緒話はこっちじゃないとできないからね』
 わざわざ電子外耳を通してささやく弟に不可解な顔になるエリーに向かって、ワーイルは自分の不恰好な電子外耳を叩いた。
「これだよ、姉さん。あの二人、電子外耳をつけてない。未登録民だ」
 エリーも意味するところがわかったのか、防護服の暗いライトでも解るほど顔色を変えた。
 電子外耳は登録国民の証であり、着用が義務付けられている。未着用者には罰則があり、支給されていない者は国内に存在しないことになっている。未登録者はすべて不法入国者扱いになり、不法入国罪で罰せられるか国外追放かのどちらかである。
「ワーイル、私もそれはすぐ気付いた」
 エリーはワーイルに顔を寄せ囁いた。
「だからこれは私が預かっておくわ」
 咄嗟のことで、ワーイルは反応できなかった。エリーがワーイルの電子外耳をもぎ取るように奪ったのだ。
「通報するか相談しようと思って私を呼んだんでしょう。後ろめたくて非人道的な自覚があるなら、汚れ役は一人でやることね。未登録民だからって悪人と決まったわけじゃない。それに具合の悪い人もいるのよ」
 エリーは目を剥いてそう言うと、自分の電子外耳も外してスカートのポケットに突っ込んだ。整った顔にそぐわない迫力があった。
「……ガキかよ。ばっかじゃねえの」
 ワーイルはそう言うのがやっとだった。驚きと、姉の幼稚な裏切りに対する怒りとで言葉が思いつかなかったのだ。
 ああ、頭が痛い。防護服のぶかぶかな手袋の中で怒りに掌に爪を立てて、吐息と一緒にそう吐き出すと、ワーイルは観念して腰を落とした。エリーを殴り倒してでも電子外耳を取り返すつもりで。
「野良猫拾うのとは訳が違うんだ。政府は雨降らすぐらいカリカリしてるんだぞ。僕が相談したかったのは『通報するか』じゃない、『通報した後の口裏あわせをどうするか』だ!糞、二時間も一緒にいてすぐ通報しなかった言い訳を考えなきゃいけないのに……」
 だのに当の姉は、己の行動が弱者に対する善行かのように堂々としたものだった。いや、本人は正義のつもりなのだ。それはワーイルもよく知っていた。一回り離れた実姉の勧善主義とは、しばしば衝突している。
「あなたは話をしたこともない、名前も知らない相手をどうやって悪人だと決めるの?まさか黒い服を着てるからなんて言わないでしょうね。テロリストが黒服党だからって、未登録民で黒い服を着ていればテロリストなの?」
「姉さん、知っていたけど改めて馬鹿だな」
 姉との噛みあわなさに、ワーイルは対話を諦めた。だぼつく防護服で、腕っ節の立つエリー相手に通用するかはわからなかったが。目を閉じて息を整えた。
「非人道的なのは姉さんのほうだよ。万が一テロリストだったら、看過した過失で、うちの使用人とその家族六十七人全員が一夜にして路頭に迷うってこともわかってないんだ!」
 そう叫んだタイミングで、防護服のライトを消すと、前方に当たりをつけて殴りかかった。
 突然ライトを消されて、エリーは今何も見えないはずだ。自分は目を閉じていたから、多少は見えるはずだ。そう思ったワーイルだったが、シェルの中は完全防断で光も空気も通さない。完全な闇の中では、いくら目が慣れても何も見えないことを忘れていた。
ワーイルの腕は何もない空間を泳ぎ、殺しきれなかった勢いで体が倒れるのがわかった。咄嗟に床だと思った方向に手を伸ばし、なんとか完全な転倒を免れ、膝を付いた。こうなると、左右の感覚は愚か、上下の感覚もわからない。ライトを付けて仕切り直そうと腹に手を伸ばした瞬間、背中に強烈な衝撃を喰らった。
 ばふっ、と防護服に溜まった空気が抜け、うめき声も上げられないまま、ワーイルは車輪に轢かれたヨツメガエルのようにのされていた。
「やりたかったことはわかるけど、そういうときは電源を落とさずに手で光源を塞ぐのよ。それに、両目を閉じたら相手が移動したのが見えないでしょ」
 一切の明かりがない中でも、教官様には見えているらしかった。
「姉さんに教わった技で姉さんに勝てるとは思ってなかったよ」
 だが今なら接触状態だ。載せられた足の感覚で、エリーまでの距離はそう遠くないことが解る。明かりを点けると同時に足を掴めば何とか……
「ぎゆぇっ」
 ワーイルが明かりを点けた瞬間、背中を踏みつけていた足に全体重がかかり、一瞬の後には消えていた。
 跳んで逃げたのを思考より早く感覚で理解し、痛みにかまける間もなくワーイルは飛び起きた。
 エリーが中扉を開けようとしている。中に入られて扉を閉められたら最後、もう捕まえることは出来ない。
「待てえっ」
「あっ」
 ワーイルが後ろからエリーの背中を掴んだ瞬間、エリーも扉を開け放って思わず叫んでいた。
 ワーイルがぶつかった勢いで、エリーはそのまま中に突き飛ばされ、ワーイルも転がった。
「いない」

 そこには誰もいなかった。エリーのために持ってきた防護服と光線灯もなかった。
 シェルは入り口が二つあったのだ。奥側の隔併扉が開け放たれ、丸い穴が嵐の中に繋がっていた。
「私探しに行かなきゃ」
「何でだよ!防護服もないのに姉さん何考えてるんだよ!」
 ワーイルは、指に余る防護服の手袋で姉の襟口を掴み上げた。
 エリーは蒼白だった。外の嵐は雨に加え風も増し、時折強い風と雨が吹き込んでいた。
「私たち貴族があの人たちを未登録民にしたのよ。何もかも搾取したの。同じ人間なのに。そんな過去はなかったように改竄したの。未登録民がテロリストになるのもそのせいなのよ。私たちがテロリストにしてしまったようなものなのよ。それに政府だって毒の雨を降らせて作物をだめにして、これだってテロ行為じゃない!『湖に生えればいい葦、田に生えれば悪い葦』と言うけれど、元はみな同じ葦だったのよ。私たちが悪い葦に追いやったのよ!」
 エリーは陶然と泣いていた。いよいよ馬鹿らしくなって、ワーイルは握っていた襟を放した。勝手にどこへでも行ってしまえと思った。
『電警特二権限捜査である。シェル045661応答せよ』
 突如、空いたままの扉の奥から、強烈な光と風が差し込んだ。咄嗟にエリーもワーイルも腕で顔をかばった。バババババと四羽駆動機関の打翼音が重い唸りを上げていた。
(電警のカトンボ!)
 チューリング法特例二条適応AIが搭載された自立型飛行型監視捜査機、通称カトンボが、無表情なモノアイを光らせながら二人を見ていた。
『この近隣に、未登録民の二人組が潜伏している。未登録民の二人組に関する情報はあるか』
 ワーイルとエリーは顔を見合わせた。エリーは顔面蒼白に加え、膝も震えだしていた。
「い、いません!二人組は知りません!」
 ワーイルは裏返った声でなんとかそう言った。エリーはもうはっきりと全身震え、座り込まないよう壁に寄りかかるのがやっとの様子だった。
『何故外耳をつけていない』
「あっ……」
 思わず左耳に手をやり、姉を見た。エリーはぶるぶる震えながら、ポケットから二人の電子外耳を取り出した。
「ここに……その、濡れたので体を拭こうと思って外しました……」
 無理な言い訳だったが、電子外耳がすぐ出てきたせいか、カトンボはそれ以上の追求はしなかった。
『エリー・イノーカ、ワーイル・イノーカ、照合。捜索を継続する。捜査協力に感謝する』
 カトンボが緯線を外した瞬間、ワーイルは隔併扉に飛びついた。円形の分厚い扉を無我夢中で、カチンと音がするまで引っ張りつづけた。
 腕の感覚がなくなるまで扉を引き続け、ようやく完全に閉まったことに納得した瞬間、一気に力が抜けワーイルは座り込んだ。
 横を見ると、エリーもほうけた顔で壁に寄りかかっていた。

 重い雨は予告通り六時ぴったりに上がった。
 水銀色の水溜りに、元通りの晴れた空がくっきり映っていた。橙色の夕日が、どの水溜りにも丸く光っていた。
 ワーイルとエリーは重い足を引きながら丘を登った。丘の下にどこまでも広がる下駄水田は、水銀色の一枚鏡になっていた。
「ゲタ田、もうだめだね」
 何気なくつぶやいたワーイルの言葉が切っ掛けになったように、先を行っていたエリーが歩みを止めた。
「あれで勝ったつもり?」
「はあ?」
 勝つの負けるのの言葉が出てくること自体、発想になかったワーイルは、予想の斜め上を行く姉の幼稚さに、感嘆すらし始めていた。
「さぞいい気分だったでしょうね。それ見たことかと思ったでしょう」
「姉さんのクオリティはハイブロウすぎて僕にはついていけないよ」
 以後二人の会話はなかった。

 屋敷に戻ったワーイルを待っていたのは、テヅの雷だった。
「だんな様のはこんなもんじゃ済まなかったですよ!私が何割か引いておきました!」
 ワーイルは何度か言い訳や反論をしそうになったが、ぐっと飲み込んだ。テヅは父から怒られただろう。それはワーイルが父に怒られるのとは意味が違う。もしワーイルやエリーに何かあったら、下人頭のテヅは解雇されてもおかしくないのだ。
「テヅが引いてくれた分は、父様から直接もらうよ」
 ひたすら低頭に徹し、ようやくお説教タイムが終わったとき、ワーイルは本心からそう言った。父には後で、テヅに落ち度はないと訴えるつもりだった。
 誰かが風呂を用意してくれていた。電解雨の後は皆風呂に入るはずだが、使い回しではない新しい湯だった。
 湯船に鼻下までつかりながら、ワーイルは白い肌の少女と、美しい女性のことを考えた。あの二人は、嵐の中を逃げたのだろうか。少女をかばったまま、カトンボの目から逃げおおせただろうか。

 夕食は大食堂で皆と取るのが慣わしだった。その日、具合が悪いと言って、エリーは下りてこなかった。
 大食堂にはそんなに大きくはない立体(トリ)ビジョンが置かれていた。食後の一時間は、立体ビジョン好きたちがよくニュース番組を見ていた。
「テロリストが捕まったってよぅ」
 誰かの言葉にワーイルははっと顔を上げた。立体ビジョンのニュースキャスターが、二人組の黒服党が逮捕されたことを伝えていた。
「よかったなあ、これでもう雨はねぇ」
 皆がテロリスト逮捕を喜び合う中、ワーイルは体の芯が暗く冷たくなっていくのを感じた。

 屋敷からドッグに降りていく階段の途中に、ぶどう棚があった。ワーイルの祖父が「味気ない屋敷に彩りを」と作った、小さな園芸だ。
 ワーイルはこの棚がお気に入りだった。棚の下には、白い肘掛け椅子が置いてある。ここに腰掛けて星を見たり、山向こうの花火を見るのが好きだった。ぬるんだ夜風は、夏の心地よい匂いがした。
 ぶどうは花を終え、硬く小さな実をつけていた。
「塩漬けにちょうどいいぐらいですねえ」
 ニュービールの缶を手にしたテヅが、屋敷から降りてくるところだった。
「テヅ、姉さんが皆に迷惑かけるかもしれない」
 ワーイルの言葉に別段驚いた様子もなく、テヅもぶどう棚の下にある白い肘掛け椅子に腰をおろした。
 テヅは何も言わなかったが、ワーイルはテヅが聞いているかはお構いなしに、昼間のことを話した。それに対し意見が欲しかったのではなく、一人で抱えるには持て余していたのだ。
一通り吐き出すと、ワーイルは深く椅子に身を沈めた。
「捕まったテロリストの所持品からうちの防護服が出てきたら、もう何を言ったらいいだろう」
「ぼっちゃん、テロリストは男二人組だって話ですよ」
 テヅはニュービールをちびちび呑りながら、穏やかな顔で聞いていた。
「それにしたって姉さんは未登録民を庇ったんだ。これが三軒周りに知れてみろ。未登録民のせいで電解雨が降らされて、そのせいでみんな作物がやられちまってるのに。すぐに干されてお仕舞いだ。姉さんは何もわかってない」
 テヅの顔は、皺が刻まれ油と色素沈着で黒く照っていた。よく仕えよく勤める農工の顔だった。皺の奥で、穏やかな三角の目がワーイルを見ていた。
「ぼっちゃんは誉めて欲しいんですか?」
「テヅまでそんなことを言う!そういうのは姉さんだけでいいよ」
 帰り道の勝った負けたが思い出され、ワーイルは荒く息巻いた。
「ぼっちゃんは非常に私らのことを考えてくださる。同い年の誰と比べても、ぼっちゃんほど使用人のことを考えてくれる若様はおらんでしょう。でもぼっちゃん、エリーお嬢様が私らのことを考えて下さってない訳じゃありません。エリーお嬢様は心の優しいお方です」
「だとしても、思慮が足りなすぎる。二手三手先がまったく読めてないんだ。自分が優しくすれば世界がよくなると本気で思ってる。姉さんは贖罪ごっこが好きなだけなんだ。懺悔する加害者になりきりたいだけのナルシストとしか思えないね」
 夜風は昼の熱をはらんで優しくぶどう棚をつつんでいた。テヅの目は優しかったが、悲しそうでもあった。弟である僕が実の姉を馬鹿だと言い切るのが悲しいのだろう。ワーイルはそう思ったが、姉への発言を撤回する気はなかった。
「エリーお嬢様は貴族なんですよ」
 テヅがつぶやいた。ワーイルも聞き逃せなかった。
「僕が貴族じゃないみたいな言い方だ」
「ぼっちゃんはどこに出しても恥ずかしくない、立派な耕戸貴族です」
 テヅは力を込めて断言した。己の主に一片の疑いもないという誇りがあった。
「ですがエリーお嬢様は、大百貴族の御心なんです」
 ああ、そうか。ワーイルにも言いたいことが解った。
 一ジェネレーション遅く生まれたワーイルは、上代貴族が存在しない世界に生れ落ちた。そこにあるのは、雇用するものと雇用されるもの、資本家と労働者だけだった。
 耕戸貴族は、貴族であって貴族ノウブルではない。かつて高貴ノウブルであったが、今は労働者の上に立つ労働者なのだ。
 一等上等な上代貴族は、既得権力を傘に着る下種な貴族とは違い、高潔で「貴種の責任」を命で負うものであった。今の時代、それはまったく滑稽なドンキホーテだが、ほんの二十年も前には、それがまっとうな価値観として認められていた。
 テヅは、エリーの考え方が多少時代遅れではあるが、間違った嘘のものではないと言いたいのだろう。
「昔は正しかった考えかたなんて、今の正解じゃないよ」
 それでもなおエリーを否定するワーイルに、ニュービールの缶を指でゆっくり潰しながら、ぽつりとテヅが漏らした。
「『湖に生えればいい葦、田に生えれば悪い葦』とは言ったもんです。誰もが自由に動けるわけじゃない。周りが田んぼにされちまっても、葦は自分じゃ動けないんですよ」
 同じ人間なのに。エリーの言葉だ。同じ人間だが、ワーイルはテヅを雇用し、テヅは孫のような少年に使われている。
「今日湖だったところが、明日田んぼになる事だってあります。その時、そこを捨てて動ける葦ってのは、そうはいないもんです」
 ワーイルは夜空を仰いだ。そこに星はほとんど見られなかった。
「じゃあ、僕の考えも姉さんの考えも間違ってないなら、僕が取るべき正解はどこにあるんだ?」
 ペコン、と缶が潰される音が小さく響いた。
「正解は『殴られたら痛い』ってことの中にしかないんですよ、ぼっちゃん。それが自分になるか、ほかの誰かになるか、それだけなんです」

 白く晴れた朝だった。その空に雨の跡はない。しかし、地上にはそこかしこに水銀色の傷跡が残っていた。
 ワーイルは昨日と同じく、石火車を滑らせて少年学校に向かっていた。丘の上から見える下駄水田の面は、いまだ空を映す鏡だった。
「いい葦、悪い葦」
 今日は耕戸貴族の自分も、明日には反逆者かもしれない。持てる何もかもを失って、この国にいてもいいという後ろ盾も失って、未登録民になるのかもしれない。
 そのとき、自分は自分の足で新天地を求めて進めるだろうか。
 何万枚もの下駄水田の遥かかなたに、巨大な水耕牛機の姿が霞んで見えた。
 石火車は、風のように夏の丘を駆け抜けた。









隣人とは誰か

 少年には様々な「隣人」がいます。農園を支える下人、実の姉、テロリスト、そして政府。
 少年は冒頭で貴族世界史を学んでいますが、それは貴族の視点から記された世界史です。
 少年の「隣人」は、すぐ傍にいます。しかし彼らから見た「世界史」は、少年のそれとは必ずしも重なるものではありません。

 書き手が話に振り回されてしまった感はありますが、椎名誠的な言葉遊びと和洋折衷のSF感覚を楽しんでいただければ幸いです。

          高等人工生命研究所 五十三軍曹



発行 高等人工生命研究所
http://hallaboratory.net/

2006/11/12 コミティア78初版発行